青色オード・ミー

腐女子が学級会などに言及するブログです。

現パロに何を求めるか?

 仰々しいタイトルを付けたが、今回の話は単純な私怨から書いている。

 「現代パロディが好きなのは、作品を冒涜している」
 簡単にまとめてそういったことを、直接ではないが言われたことがある。
 それに疑問を覚えている、というよりも端的に言えば腹が立っている。

 私はいわゆる現代パロディが好きだ。
 よく読むのはもちろん、自分で二次創作もする。

 現在、私のいる界隈では現代パロディ(以下は現パロ)がひとつの二次創作の傾向としてある。
 その一方で、先述の通り現パロに批判的な人たちがいる。私が現パロを好きなように、受け付けない人がいるのは当たり前のことだと思う。ただ読むのが嫌い、作品として嫌い、というだけではなく、二次創作として現パロをするのはやめろといった意見もある。

 現パロなんてやめろ。
 そう主張する人たちが「現パロをどうして批判するのか」について、私は反対意見しか持ち合わせていないためその主張の根本を正確に知ることはできない。
 そのため、今まで見たことがある意見とあとは推測を元に言うが、「二次創作で現パロなんてやるな」と批判する人たちの根拠として大体この言葉を聞く。

『原作軽視』

 つまりは冒頭にも述べたように、現パロ自体が原作の冒涜にあたるのではないかということだ。
 作者の好きな設定を押し付けているだけ、そんな二次創作をする人は原作の世界観を掴み切れずに逃げている、キャラの名前だけ差し替えたらほかの作品にも当てはまるような「キャラがそのキャラである」必要がない、ゆえにキャラ愛、原作愛を感じられない。

 現パロなんて、原作軽視甚だしいものはやめろ。
 そう言いたくなるような「作者の都合のいい設定を押し付けて」「キャラがそのキャラである理由もなく」」「原作の世界観から逃げている」ように感じる作品も確かにある。
 パロディとして原作の要素が薄れるからこそ、本来ならなおさらキャラクターの描写が難しいところだとは思う。
 ただ、一事が万事こういったものであるという風に決めつけられるのは解せない。多かったとしても、全部ではない。少なくとも、私はそう見えないものを作る様に心掛けているつもりであるし、私が好きな現パロの二次創作作品もそういう風に言われるようなものではない。
 現パロが根本的に合わない人がいると思う。でもそれは、ただ単純に解釈が合わなかっただけで、「現パロという妄想」そのものが二次創作として否定されるべきかどうかは別の問題である。

 私が言いたいのは、現パロを好きになってほしいとか、現パロを読んで欲しい、なんてことではない。「現パロという二次創作」を侮蔑したり、あるいは「現パロ二次創作の作者」を攻撃することをやめてほしい。
 逆カプだからといって作者、ないしはカプそのものを攻撃する人をみたら「何言ってるんだこいつ」とほとんどの人は思うのではないか。そしてほとんどの人は、普通に腐女子をしているなら、逆カプや解釈が合わないものを見つけたらそっとブラウザ閉じるだけだ。現パロも同じように、合わないと思ったならそっとブラウザ閉じてほしい。

 ただ、それだけだ。
 

 あくまで個人的な事象に基づいて話を進めるので、現パロが嫌いな人の総意ではないと理解してはいるが、こんな意見を目にしたこともある。
 「現パロなんてする奴は、キャラのことなんて本当はどうでもよくて原作の理解も全くしていない。そんなことするなら、勝手に一次創作してろ」
 どうして、「現パロ」と一括りにして、そんなことを言われなければならないのか。
 改めて言うが、私は現パロが好きだ。そして現パロを含めて、二次創作をしている。
 同じ二次創作をする側であるはずなのに、どうして現パロだからといって軽視され、創作として程度が低いといった内容のことまで言われなければいけないのか。

 現パロをやめろという人たちに対して、この場を借りて反論したい。

 原作軽視、とは二次創作をしているとその批判に行き当たることは往々にしてあるだろう。でも、広義的に言えば、そもそも原作にありもしないカップリングの話を勝手に書いて、ありもしない心情を掘り下げている時点でねつ造甚だしく、同じく腐女子として二次創作界隈で活動している人に言えたことではないと思う。同じ穴の貉ではないか。原作軽視という言葉を現パロに対して用いるのであれば、それはあなたが好きな二次創作のカプそのものに返ってものではないか。

 ここで勘違いしてほしくないが、二次創作そのものが原作軽視だとは私は思っていない。というとまた別の界隈から怒られそうだが、今回はあくまで二次創作を楽しんでいる腐女子に向けて、少し聞いてほしいことを書いているだけだ。二次創作、とくにその中でBLのカップリングをすることがどうかという問題は置いておく。

 私が現パロをするのには理由がある。
 もちろん、妄想などをすることに大した理由はない。一文前の言葉をすぐに否定することになるが、妄想をすることそのものの理由は、思いついたから、それが自分にとってエモかったから、といった理由だ。
 現パロ、というシチュエーションを使うことには理由がある、と言い換えたほうが正しい。
 特にそれをする必要のない作品では現パロはしないが、特定のジャンルでは現パロをよくやる。それは以下のような場合だ。

・原作内でカプのどちらかが死ぬ

・原作内では恋愛に思い悩む隙がない

 まず一つめ。

 原作内でカプのどちらかが死ぬ。

 死んだことに意味はある。死んだことをなかったことにしたり、もう一回生をやり直す現パロをすることは、そのキャラの死を蔑ろにしているのではないか、と考えたりもする、が死んでしまったらどうしようもない。だからもう一回生きてもらう。
 原作の余地にカプの妄想をねじ込むことはできるが、その余地がないような作品もある。推しカプの二人が出会ってから、そのどちらかあるいは二人ともが死ぬまでが密に描かれている場合、ほとんど余地が残されていない。
 推しカプの幸せな姿を見たい。
 見るためには、どうにかして余地が欲しい。だから現パロをする。原作からの逃避だという人がいるかもしれない。でも推しカプの幸せな姿がどうしても見たい。

 そして二つめ。

 原作内で恋愛に思い悩む隙がない。

 一応、ここに書く話は特定の作品のことを指しているわけではないと前置きしておく。
 例えば、命を懸けて何かを守るということが物語の主軸にあるような、毎日が死と隣り合わせに生きているような作品のキャラでカプを作った場合。
 死と隣り合わせの彼らが、色恋で平和に色ボケしているということこそ原作からあまりにもかけ離れすぎていると思う。これは決してそのような二次創作の作品を貶めているわけではない。私自身もそういった創作はする。でももし現パロとして「平和な現代に彼らが生きていたら」と仮定したら、ただただ幸せな彼らを描ける。
 生きることで一生懸命じゃなくて、恋に一生懸命になる姿も見ることができる。

 幸せな彼らが見たい。
 原作の世界では、互いに手を取り合って幸せに生きていくことができないかもしれない彼らが、幸せにともに生きている姿が見たい。
 その舞台として、現パロを選ぶときがある。
 私が現パロをするのは、そんな理由だ。

 何も考え無しに現パロにすればいいと思っているんだろう、といった言われ方をすると正直傷つく。推しカプの幸せな姿が見たいだけなのに。
 誰でもいいわけじゃない。原作では結ばれなかった彼らが、どう出会えば想いを通わせられるのか、そんなことを私が考えるのは推しカプだからだ。彼らでなければいけない。ほかのキャラに置き換えられる話ではない。
 現代に勝手に舞台をすりかえたのは私だが、でも現代でも彼らは彼らだ。何も違わない。

 現パロにおける著しいキャラ崩壊が指摘されることがある。それは、作り手の力不足である。ただ、そんなキャラ崩壊は、現パロだから起きるというものではない。
 現パロに限った話ではなく、キャラクターがキャラクターに見えないというのは二次創作においては致命的だ。確かにそんな作品は「よくない」のかもしれない。
 でも、誰かの好きが詰まった作品だ。原作に対するリスペクトがないと、勝手に決めつけないで欲しい。

 歴史ものの時代背景を踏まえて二次創作をすることも楽しい。
 ファンタジーの独特の世界観で二次創作をするのも楽しい。
 現パロとして二次創作することも楽しい。
 私はそれぞれが好きで、どれかが良くてどれかがダメということではないと思っている。

 現パロが表立って批判されることの理由の一つに、「ジャンルの覇権を握ってしまうことがある」というのもあると思う。現パロがあまりにも多く、ジャンル内大手も現パロばかり、ランキング上位やユーザー数が伸びるのも現パロばかりで、そもそもの原作設定の作品が蔑ろにされているように感じることがあるのかもしれない。
 私は、現パロ批判において「現パロは間違っている」という観点を持っている人が多い印象を受けてきた。でも、間違っていると決めているのは、そう主張している人だけだ。「現パロが嫌い」であればただの好みの話に過ぎないが、「現パロは間違っている」というのは、決めつけではないか。

 現パロは、一方的に批判されなければいけないことだろうか。
 「作品が冒涜された」という言葉で怒りをぶつけられなければならないことだろうか。
 「二次創作をやめろ」と言われなければならないことだろうか。
 もちろん二次創作を行っていることはグレーゾーンであって、その二次創作をしている側が権利だのなんだの言うのはおかしいことはもちろん分かっている。でも、現パロが否定されなければならないものだと、どうしてその権利があると言えるのだろうか。

 現パロ作品には大体「現パロ」の表記がある。それは検索に引っかかるために入れているものだが、反対にマイナス検索もできる。「現パロ」は確かに少し特殊な二次創作かもしれないが、ページを閉じるということで解決しないだろうか。
 「現パロが嫌い」という人はいると思う。それは、私が現パロを好きなように、人の好き嫌いがあるのは当たり前だ。
 だからこそ、その個人の好き嫌いで「現パロをやめろ」というのは少し違うのではないだろうか。
 もちろん、二次創作は原作側からはいつでも否定される可能性がある。そんなことはないと思うが、原作側が現パロに限って「現パロは禁止」と言ったらならばその限りではないが。

 重ねて言うが、私は現パロが好きだ。
 もし、現パロを現在創作している人がこれを読んでいたら、批判を目にしていても現パロをやめないで欲しい。
 そしてあわよくば、現パロをやめろと主張していた人がこれを読んでいたら、今度から現パロに対してはそのままブラウザを閉じるに留めてもらえればいいなと思う。