青色オード・ミー

腐女子が学級会などに言及するブログです。

お願いだからツリーまで読んで、パクツイはリツイートしないで欲しい

 表題の通りである。

 いままで、ツイッター上で話題になったオタクの学級会等の件についてのみ記事を書いてきたが、今回のはそれとは関係ない。もしかしたらタイトルに当てはまる行為を行うのはオタクには少ないのかもしれないが、少なくとも私のオタクとbotしかフォローしていないアカウントにも同様のことをする人はいるのでここに書きたいと思う。

 パクツイをリツイートするな。

 これはツイッター界隈では暗黙の了解だったと思う。少なくとも、私がツイッターを始めた数年前には。

 そもそも、パクツイがなぜ存在するのか。面白いことを呟くアカウントだと思われて、リツイートが増えて、ちやほやされたい。そういった意味だと思うのだが、YouTubeと違ってツイッターには分かりやすい広告収入などはない。残念ながら、私は万単位のフォロワーなどもちろんいないので、実際には何十万とフォロワーがいるユーザーには広告収入があるのかもしれないが。

 そのことを考えたうえで、「ちやほやされたい」というだけの理由で他人のツイートをあたかも自分のもののようにツイートすることは、私は単純に嫌いだ。他人のふんどしで相撲をとるようなやつが嫌いだから、以上だ。

 そもそも、オタクは「パクリ」にうるさい。アニメや漫画、ソシャゲなどでともすれば他作品の「パクリ」ともいえるようなものを見つけたら、すぐにまとめを作り拡散する。それは、「元作品を好きな人」と「元作品を心を込めて作った作者」の気持ちを踏みにじるような行為だと憤慨しているからだと私は思っている。オタクは自分が好きな作品が踏みにじられるのに憤慨するように、同じく、他人が好きな作品がまた踏みにじられるのも許さない。

 しかし、パクツイに関しては特に頓着が無いのか、はたまたツリーまで読んでいないからそれがパクツイだと気が付いていないのか、リツイートをするオタクがいることは確かだ。少なくとも、私のタイムラインにはいる。私のタイムラインの民度が低いのかもしれないが、そのような人が少なくないと私と同じように感じている人に向けてこの記事は書いているので「そんなオタクはいない」と思っている人はこれから先特に読む意味はない。

 閑話休題、パクツイはそもそもバズったツイートなので内容は面白い。そしてある一定以上再びバズることになる。そうすると、必ず「パクツイ警察」が出てくる。どこからともなくあらわれる彼ら彼女らは、驚くほどの速さでパクツイに「このツイートはパクツイです」というリプライをつける。そして、うっかりパクツイをそうと気づかずにツイート詳細欄を開いた人がそれに気づき、「パクツイです」というリプにいいねをつけることでリプがツリーの上にあがり、次にまたツリーを読んだ人がパクツイだと気が付く。なので、大体のパクツイはツリーを読めばそれが元ツイートなのか、それとも誰かのをそのままパクったツイートなのかが分かる。

 でも、パクツイは驚くほど再びリツイートされる。そして、私のタイムラインにもやってくる。いつもはパクリにめちゃくちゃ敏感でむしろ過敏なほどに反応するオタクが、パクツイだけは精査しないでリツイートする…。

 何故だろうと思うのだが、「パクツイをリツイートしたくない」という意識が薄いのかもしれない。面白いからリツイートしただけ。リツイートをするだけならわざわざ詳細欄は見る必要が無い。ツイートの下にあるリツイートを選ぶだけで、そのスピード感があってその中に詳細欄をみる余裕はないのかもしれない。

 でも、ツイートも一つの文章作品だと思う。他人がもし我が物顔で自分のツイートをそっくりそのままツイートして「面白い話ですね!」とそれを読んだ人に「その人のツイート」だと思われたら、と想像すると全く面白くない話だ。少なくとも私にとっては。

 大げさかもしれないが、パクツイは盗作以外の何物でもない。オタクが嫌いな「パクリ」そのものだ。名前から見て分かる通り。だから、好きな作品があってその作品を「パクられる」のが嫌だと思っているなら、あるいは「パクリ」によってつくられたコンテンツを忌み嫌うなら、同じようにツイートに関してもパクツイはコンテンツとして受け入れないで欲しい。ツリーを読めば必ずわかるから。あと大体パクツイ警察は元ツイートもリプで貼ってくれているので、ツイートをリツイートしたいならその元ツイをリツイートして欲しい。

 これは余談だが、「〇〇画像」「おもしろ〇〇」などのアカウントはほとんど無断転載とパクツイで出来上がってるし、普通のアニメアイコンを使っているように見えてもパクツイ常習犯はなんとなくアカウントを見るとそのうち分かるようになる。パクツイが確認出来たら片っ端からブロックはしているが、ああいうアカウントは無限に沸いてくる。おかげで、ブロック欄はパクツイ、無断転載をするアカウント一覧が出来上がる。

 「パクリ」には敏感に、パクツイはリツイートしない。といくら私がここで言ってもリツイートしてしまう当の本人は全く見てないので気づいていないので、今日も私は幸せツイッターライフのために、パクツイのアカウントをブロックする作業をしようと思う。

差し入れの自己満足

privatter.net

 さて、またツイッターで話題になった。

 

『差し入れ問題』

 元の記事がそこそこ長いので、私の個人的解釈になるが要約すると、

 イベント会場にて「フォロワーの友人」を名乗る面識のない人から、過剰な下ネタを「差し入れ」と言ってもらって大変不愉快だった。

 という話だ。
 いささか要約しすぎなので、事実と齟齬があったらこの記事を取り下げる。
 もっと詳しい内容は上のプライベッターにしっかりと冷静な文章で書かれているので、今回の事態の把握には本記事に飛んでもらいたいと思う。

 さて、今回の件について。

 これはたまたま今回が問題提起となっただけで、前から同じ問題がなかったわけではもちろんないし、またこの筆者と同じようなことを思っていた人がいなかったわけではない。ツイッター上では、似たようなことをされたという人や、同じように不愉快に思っていた人たちなどのツイートも目立つ。

 ちなみに私もその一人だ。

 といっても差し入れを貰った側ではない。貰ってないのに、そのような差し入れに疑問を抱いていたという、まあつまりは第三者なのだが。

 イベント終了後にはツイッター上にいただいた差し入れを写真付きでツイートする人がいる。前にも、「差し入れに手作りは貰うと困る」や「大袋から出されて詰めなおされただけでも気にする人がいる」といったことがツイッター上では流れた。
 そのような中で、「推しの乳首」だのそういったいわゆる「下ネタ」を絡めた差し入れの写真もあった。

 これは単純な好みの話なのだが、そういった「下ネタ」を送りあうことが「仲がいいこと」を示しているような風潮が苦手だ。ただ、まあこれは本人の好みの話だから好きな人たちがやればいい。

 しかし、いま言ったような風潮があることによって、「仲がいいことの証明」として「下ネタを言い合う」ことがあるような気がする。

 また、「仲がいいこと」を示すためになってしまっている下ネタを断ると、その「仲がいい」ということも否定したみたいになってしまうために断りづらくなる。そのため、「ここまでしても許されるんだぞ」「こんなことができるぐらい仲がいいんだぞ」というアピールは過激化していくばかりになっている。

 それが結局今回の騒動に繋がっていると思う。

 「下ネタを言い合えるぐらい仲がいい」というのは送った側の認識に過ぎないし、送られた側がどう思うかはその人によって違う。その自己満足のために、そういう場面での「下ネタ」を歓迎できない人は心をすり減らし続けてきた。

 今回の問題提起者や、それに相続いて出てきた「下ネタ」を差し入れにもらってうれしくないという人たちは、自己満足の犠牲者だ。差し入れというのは本来相手に喜んでもらうためにするもののはずが、いつのまにか自己満足のためのものになっていた。

 自己満足に他人を利用しないで欲しい。

 私は推しの乳首よりも、クッキーやマドレーヌが欲しい。

腐女子はTwitterを辞めたほうがいい

 最近、このツイートがバズった。

 そして予想通りではあるが、批判の的にもなっている。

 ここから書くことに関しては、それぞれのツイ主の該当ツイートのみについて言及するもので、ツイ主たちの事情について一切勘案していないことをご了承いただきたい。

 このツイートを見た時、正直私は「分かる」という気持ちでしかなかった。
 地雷ぐらい避けてくれ。ちらっと見えただけで気が付いた瞬間に逃げればいいだけで、地雷を踏んだだのなんだの騒ぎ立てないで欲しい。あなたが別カプを好きなように、私はこのカプが好きなのだし、わざわざ凸ってきたり、過剰に注意書きを求めるな、と。

 知らん。
 地雷カプでてきたらその時点で見なかったふりをすればいい。
 腐女子として二次創作で原作になかったBLカップリングを作り出している時点で、同じ穴の狢だ。「趣味が合わなかった」だけのことを「地雷」という言葉にして言い争っていることは不毛でしかない。
 140字程度、あるいは絵の1枚程度、見てみないふりをすればいい。

 Pixivに関してもこんな意見を目にした。
 「開かなければいいって言うけれどサムネイル画像は見えてしまう」「逆カプ作品なのに、キャプションに自カプが入っていて検索にかかって開いてしまった」などといった意見だ。
 それが、「ABだとタグに書いてあった作品を読み切ったら、ABは破局してACオチだった」とか、「注意書きは一切なかったのに、ABタグでBA絵が入っていた」とか、それなら文句を言うのもまだわかる。
 サムネサイズですら地雷カプの絵が見たくないのも、自カプかと思って開いた作品がキャプションをよく読んだら逆カプで驚く気持ちもわからないことではない。
 でも、サムネごとき見なかったふりはできないのだろうか。キャプションを読んだだけで、本文を読まなかったのだから不幸な事故で片付けられないのだろうか。
 それができないのなら、ありとあらゆる作品がざっくばらんに突っ込まれている可能性のあるものに、足を踏み入れないほうがいい。Twitterでは鍵垢に籠って、自分の好きな人の好きなツイートだけ見ていればいいし、Pixivでは安心できる作家さんを見つけてその人の作品だけ巡回していればいい。
 「地雷カプ踏んで気分が最悪」とか、こちらが知ったことではない。
 少なくとも私は、自分が好きではないカプを見ても、見なかったふりができる。それこそ、元ツイートのようにブラウザバックすればいいだけではないのか。

 これこそ、知らんと言いたい。
 できるアドバイスとすれば、そのフォロワーとの縁を切れ。フォロワー自体は普段地雷カプのことを言わないなら、リツイートをミュートしろ。
 「でも一回地雷を踏んだ後の対処療法に過ぎませんよね?」
 そういう意見が散見されるが、正気かと言いたい。地雷だ何だというのは自分のわがままではないのか。「私〇〇嫌いです!」といえば、周りが気を付けてくれると思っているのか。一回ぐらい我慢して、対処すれば解決するのではないか。もしもその地雷カプが飛んできた一回が耐えられないのであれば、今すぐTwitterそのものを辞めたほうがいい。
 この人が言う魚雷なんて、作者がいくら気を付けていようと関係ない。「ABカプです!」と書いてあったところで、サムネサイズですら目に入るのが嫌だということだろう。
 知人のリツイートで地雷カプ回ってきたんですけど、なんてクレーマーもいいところではないか。作者には一切関係ない。

 ここに挙げたツイートの主が腐女子でなかった、あるいは私が今まで述べてきた状況とは異なった状況を想定していたら申し訳ない。

 今回の反論に関して主な意見をまとめると以下になると思う。

・ワードミュートしても引っかかる
・踏んでしまった段階で不愉快
・地雷カプなどそもそも見たくない
・自カプの検索に引っかかってほしくない

 なら、地雷カプが載っていそうな媒体全部見るな。
 昔の個人サイトならば、サーチの段階でカップリングがわけられる。それならば地雷に関してはほとんど見なくて済むのだから、そっちしか見なければいい。
 腐女子をしている時点で、「自分が好きじゃないカプ」が存在するのは織り込み済みではないのか。「そういう人もいるんだなぁ」と思わずに「地雷」と騒ぎ立てることにどんな意味があるのか。

  今回の件で、ワードミュートだの「勝手に目に入ってくる」だの「検索避けしなければならないのは出す側」だの言う権利があるのは、「腐女子」(あるいは「夢女子」)でない側の人だと思う。
 自分が好きなキャラが、非公式カップリングで付き合っているとかなんとか、そういった対象として扱われているのが不愉快だという人はいるだろう。そういう人から、文句を言われるのは当然だ。
 現在の腐女子、というか非公式カップリングを隠そうという意図が見られない人が多すぎる。某探偵界隈のカップリングでつい最近話題になった通り、二次創作のカップリングであるにもかかわらず、いかにも公式然として振る舞う腐女子の図々しさには辟易する。
 ただ、「非公式カップリングの検索避け」と「腐女子の地雷カプの検索避け」を同列に語らないで欲しい。
 R-18、グロ、リョナ等、当然のごとく注意喚起をしなければならない要素以外で、地雷カプを踏まされたからなんだというんだ。界隈にいれば、というか地雷というぐらいなのだからそのカップリングがいることは当然認知しているのだろう。いきなり、自分の好きなキャラがBL扱いされているをの目の当たりにした一般のファンの衝撃の比ではない。
 繰り返して言う。「地雷です!」なら、避けろと。

 問題はこれだ。
 腐や夢は、非公式である以上、不愉快な思いをする人がいるから隠れたほうがいい。
 夢界隈は正直よくわからないから、ここからは、あくまで腐界隈の話に限定させてもらう。
 個人サイト時代にはあれだけ「公式との複数タブ禁止」やら「オンラインブックマーク禁止」などをサイトの入り口に掲げ、検索避けのために作品名をさまざまな言葉に置き換え、「パスワードは(キャラ名)の誕生日の4桁の数字です」とか言って、ややこしくはあったものの「その趣味」を持っている人以外には作品を見られないようにしていたのに。
 今は、「だから腐女子」は、と指摘されているようにTwitterでキャラ名の検索をかけただけで腐ツイートがひっかるようになってしまった。
 正直、Twitter腐女子には向かないと思う。
 Twitterというのは、全世界に公開されている場である。作品を純粋に好きなファンにも見られてしまう。あるいは、もっとまずいことに、作者先生本人に見られてしまう。
 先生も分かっているとは思う。キャラクターが二次創作でそういう風に扱われているということは、察していると思うがそれを分かったうえで「隠れているふりをしているから見ていないふりをして黙っている」という関係であると思う。それが、どう考えても、最初の「隠れているふり」ができていない。その状態であれば、「見ていないふりをして黙っている」がいつまで続くか分からない。
 腐女子Twitterを辞めたほうがいい。
 鍵垢に籠っているならともかく、カプについて鍵垢でしか語らない、鍵を開けたりしない腐女子がどれだけいるだろうか。
 ただし、Twitterというのは腐女子にとって便利なものだった。
 いままでコソコソと隠れてやっていたところで、同士はなかなか見つからない。サイト管理者同士で繋がっている人は多かったが、それもかなり勇気を出して凸らなければ相互リンクにすらならなかったし、ROM専であれば好きなサイトにコメを残すぐらいしかすることがなかった。オフの場で交流することもあっただろうが、それも時々しかやらなければ関係など築けるわけがない。
 作品が無くても、同士と繋がりたい。作品という形にまでしなくても萌語りがしたい。それが、簡単にできるようになってしまった。できると分かってしまったのに、これから先、また前のサイト時代のように「サイトを持つ者は交流できる」「それ以外の人は感想を残すのみ」「あとはイベント会場で会う」極端に言えばそれだけになってしまうというのは無理だろう。
 偉そうに書いてきたが、私もTwitterが無くなるのは悲しい。毎日ありとあらゆるツイートで新しいカップリングを見ることもできるし、140字の中で最高のシチュエーションを生み出す人もいる。

 腐女子がオープンでいられる場、を作ることができればいいのにと思う。
 少し前に話題になったマストドン
 文字数制限やツイート公開範囲などについて、Twitterと多少の違いはあるが、使い方はほぼTwitterと一緒だ。
 大きな違いは、Twitterというのは「Twitterをやっている人たち」という大きなくくりで一つのコミュニティに属していると言えるが、マストドンはコミュニティを限定できる。フォローの関係やリスト機能とかではなく、そのコミュニティに入っている人たちでしかリツイートやフォローフォロワーの関係になれない。小さなTwitterがいくつもあるようなものだ。
 例えば、Pixiv社がやっているマストドンはPawooという。そんな感じで、それぞれがコミュニティを新たに新設できる。
 そういった形で腐女子コミュニティがあればいいのにと思う。そうしたら、その中でキャラ名のツイートをしたところで、「腐女子ではない人」の目に触れる機会は著しく低くなる。リツイートを回す先も、表示される先も、すべてコミュニティに属しているのが腐女子だけだからだ。
 あくまで私は、だが、知らない作品のカップリングでも気になったらそこから原作の履修をすることがある。そういった意味で、「作品」や「カップリング」だけにこだわらないコミュニティが欲しい。それに、前記事で少し書いたが、あらゆるジャンルを掛け持ちしていたりすると、ただ「カップリング」などでしかコミュニティがない場合には垢分けが大変になる。ただ、腐女子という括りであれば、自由度も増して、今Twitterを使っているのとほとんど変わらない使用感で、これからも同人界隈を楽しめるはずだ。
 その際もきっと、「このカプ地雷です!」とかなんとか言う人はいるのだろう。本人に凸しなかったところで、「タイムラインに地雷カプ流れてくるからしんどい」とかなんとか文句を言う人は出てくる。
 まあ、そういう人は、コミュニティに入らなければいいだけの話だ。

PixivでPV数を稼げる小説を書く方法

 もらえるものなら評価が欲しい。
 いいや、もらえるものならではなく、評価が欲しい。いいねされたい、感想が欲しい。承認欲求がどうだかとかの批判はよくされるが、知ったこっちゃない。評価されたい、されたら嬉しい、当たり前ではないだろうか。

 では、どうすれば評価が得られる作品になるのか。
 Pixivに限らず、評価を得るためにはまずPV数を伸ばさなければならない。

 これは単純な話で、仮に作品を30人が見た場合はいいねは最大30件までしかつかないが、3000人が見たらいいねは3000件まで付く可能性がある。そのため、評価が欲しいならばまず見てもらう必要がある。

 しかし、小説というのは二次創作の中でもイラスト・漫画に比べてユーザーが少ない傾向にある。つまり、小説のほうがイラスト・漫画比べてPVが伸びない。

 その中でも、PVを稼ぐためにはどうすればいいのか。
 私が今まで二次創作の小説を書いてきた中で、「これをすればPV数が上がる」と実感できたことをまとめた。

1.人気ジャンル、人気カプの作品

 人気のジャンルなら注目度は高いため、必然的にPV数が多くなる。また、人気のカップリングも同様に、タグで検索をかけているユーザーが多いためPV数は多くなる。

2.エロ描写がある

 分かりやすくエロのほうがPV数が伸びる。
 Pixivは年齢設定に18歳未満として登録されているユーザーにはR-18作品が検索結果に反映されないような仕組みになっているため、アクティブユーザーのうち一定数のユーザーの検索結果には初めからR-18タグが含まれる作品は出ないはずなのだが、R-18タグを含む作品のほうがPV数が伸びる。つまり、18歳以上のユーザーがエロばかり見ているということが分かる。

3.文字数が適度に多い

 文字数は文章力と比例する。というよりも、短すぎる作品は読みづらい文章で構成されていることが多いと言った印象を、いままで読み手としていた中で思ってきた。
 文章が読みやすく、面白い作品を書く人は文字数も適度にある。
 単純に物語がすぐに終わってしまう読み応えのなさもあり、文字数が1,000字未満の作品は敬遠されやすい。
 個人的見解だが、文字数は5,000~20,000字程度にするとPV数は伸びた。5,000字未満の作品は読みごたえも乏しい。また読むのにあまりにも時間がかかるものは、Pixivで手軽に読むには重い。20,000字を超えると多すぎる。個人的には長い物語も好きなのだが、やはりあまりにも時間がかかると敬遠されることがあるのは事実だ。
 そのためPV数を伸ばしたいなら、5,000字から多くても20,000字の範囲に収める必要がある。

4.表紙が綺麗

 これは、『美麗イラストをつけなければならない』という意味ではない。
 毎回きちんとイラストを表紙にしている人は少ないが、あまりに下手な絵だと小説の内容に関わらずまず開いてもらえない。それならば、Pixivの標準の表紙のほうがいくらかましである。

 

 単純に、この4点を押さえればPV数が伸びやすい作品になる。
 つまり、評価を貰いやすい作品ができるのだ。
 この4点は、実際の文章力・語彙力とは関係がない。
 小説は読んでみるまでそれが面白いのか分からない。イラスト・漫画はキャプションとして表示されているところからもある程度情報を読み取って、開く前に判断することもできるが、小説はそれができない。
 小説で評価を貰うためにPV数を伸ばすには、開く前の段階の、タグ、文字数、表紙が適切である必要がある。

 反対に言えば、これのうちいずれかの要素が欠けているとPV数は伸びづらい。
 それには文章力、語彙力とは関係がない。
 知名度は関係あるかもしれないが、それは結局前作までの評価であり、評価を受けるためにはやはりPV数を伸ばさなければならない、と元に戻ってくる。
 もしも現在PV数が伸びずに悩んでいる人がいるなら、文章力に欠けているのではなく先に挙げた4点について見直してみてほしい。

 1.に挙げた人気ジャンル、人気カプなどはどうしようもないと言われたらその通りだ。だから、現在活動しているジャンルでPV数が伸びないことは、深く考えないで欲しい。アクティブユーザーが少ないジャンルで、そもそも沢山評価が受けられるわけがないのである。文章力が~とかなんだとかで、筆を折る必要はない。

 先に挙げた4点の条件を満たしていない作品を貶めたいわけでも、必ず4点を満たす必要があるわけでもない。
 あなたの小説のPV数が伸びないならば、それは単純にPV数が伸びるような条件を満たしていないだけである。それは、そもそもアクティブユーザーが少ないジャンルにいることであったり、R-18のシーンが含まれていなかったり、作品があまりに短すぎたり、あるいは反対に長すぎたり、またあるいは表紙が適切でなかったりするだけで、それ以上でもそれ以下でもないことが多い。

 評価を受けている作品は、またPV数も増える。PV数が増えれば、評価を受ける機会も増える。反対に、PV数が少なければ評価を受ける機会も少なく、評価を受けていない作品はPV数も伸びづらい。
 PV数が伸びないことを、文章力がないのだと短絡的に結びつけるのは違う。
 そして、評価が1件でもある限り、PV数が増える限り、作品を楽しんでいる人は必ずいる。
 評価もPV数もある限りは、どうかそのまま活動を続けてほしいと思う。

現パロに何を求めるか?

 仰々しいタイトルを付けたが、今回の話は単純な私怨から書いている。

 「現代パロディが好きなのは、作品を冒涜している」
 簡単にまとめてそういったことを、直接ではないが言われたことがある。
 それに疑問を覚えている、というよりも端的に言えば腹が立っている。

 私はいわゆる現代パロディが好きだ。
 よく読むのはもちろん、自分で二次創作もする。

 現在、私のいる界隈では現代パロディ(以下は現パロ)がひとつの二次創作の傾向としてある。
 その一方で、先述の通り現パロに批判的な人たちがいる。私が現パロを好きなように、受け付けない人がいるのは当たり前のことだと思う。ただ読むのが嫌い、作品として嫌い、というだけではなく、二次創作として現パロをするのはやめろといった意見もある。

 現パロなんてやめろ。
 そう主張する人たちが「現パロをどうして批判するのか」について、私は反対意見しか持ち合わせていないためその主張の根本を正確に知ることはできない。
 そのため、今まで見たことがある意見とあとは推測を元に言うが、「二次創作で現パロなんてやるな」と批判する人たちの根拠として大体この言葉を聞く。

『原作軽視』

 つまりは冒頭にも述べたように、現パロ自体が原作の冒涜にあたるのではないかということだ。
 作者の好きな設定を押し付けているだけ、そんな二次創作をする人は原作の世界観を掴み切れずに逃げている、キャラの名前だけ差し替えたらほかの作品にも当てはまるような「キャラがそのキャラである」必要がない、ゆえにキャラ愛、原作愛を感じられない。

 現パロなんて、原作軽視甚だしいものはやめろ。
 そう言いたくなるような「作者の都合のいい設定を押し付けて」「キャラがそのキャラである理由もなく」」「原作の世界観から逃げている」ように感じる作品も確かにある。
 パロディとして原作の要素が薄れるからこそ、本来ならなおさらキャラクターの描写が難しいところだとは思う。
 ただ、一事が万事こういったものであるという風に決めつけられるのは解せない。多かったとしても、全部ではない。少なくとも、私はそう見えないものを作る様に心掛けているつもりであるし、私が好きな現パロの二次創作作品もそういう風に言われるようなものではない。
 現パロが根本的に合わない人がいると思う。でもそれは、ただ単純に解釈が合わなかっただけで、「現パロという妄想」そのものが二次創作として否定されるべきかどうかは別の問題である。

 私が言いたいのは、現パロを好きになってほしいとか、現パロを読んで欲しい、なんてことではない。「現パロという二次創作」を侮蔑したり、あるいは「現パロ二次創作の作者」を攻撃することをやめてほしい。
 逆カプだからといって作者、ないしはカプそのものを攻撃する人をみたら「何言ってるんだこいつ」とほとんどの人は思うのではないか。そしてほとんどの人は、普通に腐女子をしているなら、逆カプや解釈が合わないものを見つけたらそっとブラウザ閉じるだけだ。現パロも同じように、合わないと思ったならそっとブラウザ閉じてほしい。

 ただ、それだけだ。
 

 あくまで個人的な事象に基づいて話を進めるので、現パロが嫌いな人の総意ではないと理解してはいるが、こんな意見を目にしたこともある。
 「現パロなんてする奴は、キャラのことなんて本当はどうでもよくて原作の理解も全くしていない。そんなことするなら、勝手に一次創作してろ」
 どうして、「現パロ」と一括りにして、そんなことを言われなければならないのか。
 改めて言うが、私は現パロが好きだ。そして現パロを含めて、二次創作をしている。
 同じ二次創作をする側であるはずなのに、どうして現パロだからといって軽視され、創作として程度が低いといった内容のことまで言われなければいけないのか。

 現パロをやめろという人たちに対して、この場を借りて反論したい。

 原作軽視、とは二次創作をしているとその批判に行き当たることは往々にしてあるだろう。でも、広義的に言えば、そもそも原作にありもしないカップリングの話を勝手に書いて、ありもしない心情を掘り下げている時点でねつ造甚だしく、同じく腐女子として二次創作界隈で活動している人に言えたことではないと思う。同じ穴の貉ではないか。原作軽視という言葉を現パロに対して用いるのであれば、それはあなたが好きな二次創作のカプそのものに返ってものではないか。

 ここで勘違いしてほしくないが、二次創作そのものが原作軽視だとは私は思っていない。というとまた別の界隈から怒られそうだが、今回はあくまで二次創作を楽しんでいる腐女子に向けて、少し聞いてほしいことを書いているだけだ。二次創作、とくにその中でBLのカップリングをすることがどうかという問題は置いておく。

 私が現パロをするのには理由がある。
 もちろん、妄想などをすることに大した理由はない。一文前の言葉をすぐに否定することになるが、妄想をすることそのものの理由は、思いついたから、それが自分にとってエモかったから、といった理由だ。
 現パロ、というシチュエーションを使うことには理由がある、と言い換えたほうが正しい。
 特にそれをする必要のない作品では現パロはしないが、特定のジャンルでは現パロをよくやる。それは以下のような場合だ。

・原作内でカプのどちらかが死ぬ

・原作内では恋愛に思い悩む隙がない

 まず一つめ。

 原作内でカプのどちらかが死ぬ。

 死んだことに意味はある。死んだことをなかったことにしたり、もう一回生をやり直す現パロをすることは、そのキャラの死を蔑ろにしているのではないか、と考えたりもする、が死んでしまったらどうしようもない。だからもう一回生きてもらう。
 原作の余地にカプの妄想をねじ込むことはできるが、その余地がないような作品もある。推しカプの二人が出会ってから、そのどちらかあるいは二人ともが死ぬまでが密に描かれている場合、ほとんど余地が残されていない。
 推しカプの幸せな姿を見たい。
 見るためには、どうにかして余地が欲しい。だから現パロをする。原作からの逃避だという人がいるかもしれない。でも推しカプの幸せな姿がどうしても見たい。

 そして二つめ。

 原作内で恋愛に思い悩む隙がない。

 一応、ここに書く話は特定の作品のことを指しているわけではないと前置きしておく。
 例えば、命を懸けて何かを守るということが物語の主軸にあるような、毎日が死と隣り合わせに生きているような作品のキャラでカプを作った場合。
 死と隣り合わせの彼らが、色恋で平和に色ボケしているということこそ原作からあまりにもかけ離れすぎていると思う。これは決してそのような二次創作の作品を貶めているわけではない。私自身もそういった創作はする。でももし現パロとして「平和な現代に彼らが生きていたら」と仮定したら、ただただ幸せな彼らを描ける。
 生きることで一生懸命じゃなくて、恋に一生懸命になる姿も見ることができる。

 幸せな彼らが見たい。
 原作の世界では、互いに手を取り合って幸せに生きていくことができないかもしれない彼らが、幸せにともに生きている姿が見たい。
 その舞台として、現パロを選ぶときがある。
 私が現パロをするのは、そんな理由だ。

 何も考え無しに現パロにすればいいと思っているんだろう、といった言われ方をすると正直傷つく。推しカプの幸せな姿が見たいだけなのに。
 誰でもいいわけじゃない。原作では結ばれなかった彼らが、どう出会えば想いを通わせられるのか、そんなことを私が考えるのは推しカプだからだ。彼らでなければいけない。ほかのキャラに置き換えられる話ではない。
 現代に勝手に舞台をすりかえたのは私だが、でも現代でも彼らは彼らだ。何も違わない。

 現パロにおける著しいキャラ崩壊が指摘されることがある。それは、作り手の力不足である。ただ、そんなキャラ崩壊は、現パロだから起きるというものではない。
 現パロに限った話ではなく、キャラクターがキャラクターに見えないというのは二次創作においては致命的だ。確かにそんな作品は「よくない」のかもしれない。
 でも、誰かの好きが詰まった作品だ。原作に対するリスペクトがないと、勝手に決めつけないで欲しい。

 歴史ものの時代背景を踏まえて二次創作をすることも楽しい。
 ファンタジーの独特の世界観で二次創作をするのも楽しい。
 現パロとして二次創作することも楽しい。
 私はそれぞれが好きで、どれかが良くてどれかがダメということではないと思っている。

 現パロが表立って批判されることの理由の一つに、「ジャンルの覇権を握ってしまうことがある」というのもあると思う。現パロがあまりにも多く、ジャンル内大手も現パロばかり、ランキング上位やユーザー数が伸びるのも現パロばかりで、そもそもの原作設定の作品が蔑ろにされているように感じることがあるのかもしれない。
 私は、現パロ批判において「現パロは間違っている」という観点を持っている人が多い印象を受けてきた。でも、間違っていると決めているのは、そう主張している人だけだ。「現パロが嫌い」であればただの好みの話に過ぎないが、「現パロは間違っている」というのは、決めつけではないか。

 現パロは、一方的に批判されなければいけないことだろうか。
 「作品が冒涜された」という言葉で怒りをぶつけられなければならないことだろうか。
 「二次創作をやめろ」と言われなければならないことだろうか。
 もちろん二次創作を行っていることはグレーゾーンであって、その二次創作をしている側が権利だのなんだの言うのはおかしいことはもちろん分かっている。でも、現パロが否定されなければならないものだと、どうしてその権利があると言えるのだろうか。

 現パロ作品には大体「現パロ」の表記がある。それは検索に引っかかるために入れているものだが、反対にマイナス検索もできる。「現パロ」は確かに少し特殊な二次創作かもしれないが、ページを閉じるということで解決しないだろうか。
 「現パロが嫌い」という人はいると思う。それは、私が現パロを好きなように、人の好き嫌いがあるのは当たり前だ。
 だからこそ、その個人の好き嫌いで「現パロをやめろ」というのは少し違うのではないだろうか。
 もちろん、二次創作は原作側からはいつでも否定される可能性がある。そんなことはないと思うが、原作側が現パロに限って「現パロは禁止」と言ったらならばその限りではないが。

 重ねて言うが、私は現パロが好きだ。
 もし、現パロを現在創作している人がこれを読んでいたら、批判を目にしていても現パロをやめないで欲しい。
 そしてあわよくば、現パロをやめろと主張していた人がこれを読んでいたら、今度から現パロに対してはそのままブラウザを閉じるに留めてもらえればいいなと思う。

感想は欲しいと思うのに、感想を送れないのはなぜか

anond.hatelabo.jp


 こんな記事がツイッターでバズっていた。
 実はこのブログを開設したのは、この記事を読んだからであったりするので、本懐を遂げるために記事を書く。

 文章中にも書かれているが、無駄に長いので勝手に要約すると、「マイナーカプにはまるきっかけになった作家が、自分の嫌いな別カプに移動したことを今も恨んで拗らせ、監視しつづけている」といった内容だ。
 簡単にしすぎたので、この記事を読む前にぜひ元記事を読んでほしい。

 私がこれを読んだときにまず最初に思ったのは、これを書いた人の言う「作家」が自分自身のことなのではないかということだった。実際にこの書いた人が私のことを知っているかどうかではなく、私の作品をブクマしてくれた人も同じようなことを思っているのではないか、といった不安。
 私は多ジャンルに簡単に手を出すタイプで、よく175腐女子と言われる人たちが興味を示すような覇権ジャンルを渡り歩いていないだけで、やっていることは175腐女子と何ら変わらない。新しいジャンルに手を出したからと言って、前のやつを一切書かなくなるわけではない。時々何かをきっかけに再燃させては、その時に投稿することはある。ただ、更新の頻度は確実に落ちる。でもこれも全部言い訳だ。
 この元増田の指摘する「好きなものがコロコロ変わる」「好きなものをすぐ捨てられる」ような軽薄な人間で間違いない。
 ジャンルの移動、もとい新ジャンルにはまるのは、元のジャンルでの評価が得られなかったからではない。あくまで私の意見ではあるが、評価がもらえなかったことが移動した直接の原因ではない人が多いとは思う。証拠でもなんでもないが、私が過去で一番評価が得られたジャンルは、結局そのあとすぐに好きなものができてしまって半年程度しかいなかった。評価は貰い続けていたにも関わらず、だ。
 おそらく気が変わりやすいだけだ、と自分では思う。だから、ジャンルの移動に深い意味はない。瞬間風速的に大好きだったから、その時には「一生このカプのことだけ考えて生きていきたい」なんて言っちゃうかもしれない。はっきり言ってそれは嘘だ。ごめんなさい。

 でも、そんな私でも直接感想を貰うと新しい作品を作ろうかなと思う。
 「あなたのABが好きです!」そう、直接言われたら。ABからの熱が冷めかけていても、その人のために一つぐらいは作品を出す。絶対に好きって言ってくれる人がいるなら。
 二次創作をやっている人からしてみて私は不誠実かもしれないが、特に熱を持っていないカプでもジャンルそのものを一回履修していれば、友人からお願いされて作品を上げることがあった。「誕生日だからCDかいて!」と言われれば基本応えてきた。別にCDというカプを推したことは一度もなくても。
 作ることに義務を感じているわけではない。友人がどうしてそのカプを推すのか、という話を一度聞いて、その観点からCDについて考察して、そしてささやかではあるが書くのは、一応原作を履修していればできないことではない。熱がないので、そのあともCDの作品を作り続けることはできないが。
 感想を貰った場合もそうだ。しかも、その場合には熱が冷めかけていたとしても一度は熱を持っていたカプ。誕生日のCDよりも簡単にできる。感想を貰って嬉しいと思わせてくれた、そのお礼みたいな気持ちだ。だから、一本作った後にABに戻るかと言われたら、多分ない。でも、感想のたびにまた新しいものを一本作ることはあるかもしれない。
 非常に浮気者な自分だからこそ、その時に一番熱を持っていないジャンルに対してさ作品を作ることができるのだろうなと自分では思っている。
 ただ、熱が冷めかけているものに関して、自分の中で再燃することがなく、またそういった感想を貰うこともなくもう一回作品を出すかと言われたら、そんなことは絶対にない。再燃はよくするタイプなので、しばらくしたら何か作るかもしれないが、ないかもしれない。自分でも分からない。
 だらだら書いたが、私が感想を貰ってもう一度書くのは「調子に乗ったから」だ。それがそのあと評価されなくてもいい。ただ、絶対に喜んでくれる人がいると分かっていたら、そうやって喜んでくれることがどれだけ嬉しいか、その思いだけで書く。

 私みたいな、変な奴もいる以上、たびたび言われていることだが絶対に感想は書いたほうがいいとは思う。
 ただし、私も感想をかけない側の人間だ。

 感想、というのは難しい。
 作者に送り付ける感想は、自分が感動したからというよりも、作者に喜んでほしいから送る意味合いが強い。なぜなら、私が感想を嬉しいと思う人間だから。
 だからこそ、どうしたら作者が喜んでくれるのかを考えてしまう。
 そうして考えてしまう。

「どこに気が付いてほしかったのかな」「どこを好きって言ったら喜ぶかな」

 そうやって書いた感想が健全であるかどうかはこの際置いておいて、そんなことを私は考えてしまう。
 作者は作品を作っている以上、その中で何か伝えたいことがあるはずだ。それは、Aくんかわいい! であることもあるだろうし、Bくんかっこいい! であることもあるだろう。関係が複雑によじれていることの苦しさを表現したいとか、なんかもうそういったものが全部詰め込まれたものが作品になるはずだ。
 それを正しく読み手が受け取れたら。作者は嬉しいだろう。
 でももし、それを正しく受け取れなかったら? 作者の意図と違うようにこちらが読み取っていたら? 作者は、自分が書きたかったことが伝わっていないと悲しくなるのではないだろうか。
 そう、余計なことを考えてしまう。

 そのせいで、さんざん考えた挙句薄っぺらなことしか書けないで、全部やめてしまうことが多い。
 本当はこんな風になんて考えて作っていない、あなたは何も理解していない、と、そう思われるのが嫌だから。大好きな大好きな作品を作る、作者に幻滅されたくないから。もし、不快と捉えられて、その人が筆を折ったら嫌だから。
 何と言い訳をしたところで、残るのは結果を送らなかったという行為だ。
 それは分かっている。

 作者に嫌われたら、自分はそれをもう好きと言ってはいけないんじゃないか。そのジャンルにいてはいけないのではないだろうか。
 相手が何を考えるのかは、他人だから分からない。だから、相手になんて思われるかわからなくて怖い。怖くても、感想は送りたい。

 匿名性がないのだ。良くも悪くも。
 私は自分が少しストーカー気質のある気持ち悪い人間だと理解している。そのうえで気持ち悪い告白をするが、感想を送ってくれた人のことはそのあとしばらく見ている。ピクシブでコメントを貰ったら、そこからその人のツイッターまで飛んで、非公開リストに入れてみる。何か自分の作品について呟いていないだろうか、そう思って。作品名でエゴサーチをかけて、ピクシブのリンクを張ってくれた人の前後のツイートを見る。何かコメントしてくれないだろうかと思って。
 自分がそういうことをする人間だから、反対にそうして見られていやしないだろうかと思う。さっき言ったように、雑食であらゆるジャンルのことを自分は呟くから、何が相手の地雷になるか分からない。
 ピクシブでコメントをすれば、ピクシブのいいねとかを見られるかもしれない。リンクをしているツイッターアカウントを知られるかもしれない。
 全部、私に繋がっている。相手から私を見られて、どう思っているか分からない。

 嫌なことを思われたくなくて、結果何も感想を言わない。エゴサーチしてくれたときにうっかり見たぐらいならいいかと思って、ピクシブのリンクを張るときにちらっとコメントをつけてツイートすることはあるけれど。

 それも全部、自分が欲しいと思っている感想を相手には送っていないことだけだ。結果としてはそれだけが残っている。

 こんな私だが、感想を送っていた時があった。ログが残っていないから、もう自分がどんな恥ずかしいことを言っていたかは分からないのだが、でも送らなくなってしまった今よりはましだろう。
 感想を送っていた時、それは、個人サイト時代だ。当時のブックマークはパソコンに保存をするものだけで、当たり前だが現在のusers表示なんてない。だから、直接評価するしかなかった。読みたいからやっていただけだが、毎日サイトを訪問してアクセス数に貢献していた。ランキングのリンクはぽちぽち押していた。ランキング上位に好きなサイトが入っていると嬉しいと思ったのは、今のピクシブランキングに好きな作品が入ることと同じ喜びだと思う。

 そして、個人サイト時代に直接感想が送りやすかったのは、ウェブ拍手があったおかげだ。
 今もウェブ拍手のサービスはある。そして、一年ぐらい前か、その時に二次創作界隈でいきなり回帰現象が起きて、みんなウェブ拍手のURLを取得していた。今はお題箱やら質問箱やらマシュマロやら、なんかそんなのがあるらしい。
 ウェブ拍手はそのまま「拍手」を送れるサービスだ。一日に最大で10回まで。サイトに設置されるボタンを押すことでお礼ページに飛んで、そこからもっと送ることができる。お礼ページには1000字程度までのコメントを入力できる欄があって、これは完全に匿名で行えた。
 ログインしなければならない別のSNSサービスとのリンクが無かったのだ。あくまで作者の人にそのまま「拍手」を送るサービス。さっき言った毎日訪問していたサイトには、毎日ウェブ拍手を上限の10回まで送り続けていた。正直言って自分でも気持ち悪いと思う。
 コメントは、送るたびに名前を変えていた。名無しから送られるのも怖いだろうと思ってコメント主の名前は入れていたが、一回使い捨てでまるで複数人からコメントが入っているように送った。これは、特定の個人だと認知されたくなかったから。
 時々、レスのページを作っている人がいて、そこのページから返信がもらえた。「〇〇のシリーズが好きです!」と送れば、「ありがとうございます! 続きも頑張って書きます!」とそれだけ。
 今のSNSではきっと、作者から返信を貰ったらまた何か「お返事ありがとうございます!」とか返信をしなければいけない気持ちになる。でも、ウェブ拍手では返信のしようがないのだ。「前回と同じ〇〇です!」と言ってもう一回コメントを送ればいいが、別に向こうもそれを期待していたりはしない。
 その適度な匿名性がよかった。もしかしたら、悪意あるコメントを沢山送り付けられていた人もいたかもしれない。だから、私がいいと思っているだけで、まったく反対のことを思っている人もいるだろう。匿名性が無いから、悪意あるコメントを送れなかったと。
 そういえばこの間ウェブ拍手がはやった時にも、悪意あるコメントを送り付けられて困っている大手さんがいた。でも、悪用しようと思えばツイッターでも他人の攻撃はいくらでもできるから、結局はコンテンツではなくユーザーの問題だ。
 ウェブ拍手というコンテンツでなくてもいい、匿名で感想を送れれば、あるいはもっと感想というものは前みたいに気軽に送れるのかもしれない。
 わがままを言えば、昔の個人サイトのウェブ拍手はサイトの中であればどのページにもボタンが設置されていることが多かった。それが今は、仮に匿名の感想を送れるようなところを設置していたとしても、ツイッターの固定ツイートにしかそのリンクが無かったりする。感想クレクレしているみたいで不愉快という声もあるかもしれないが、ピクシブだったらキャプションに、ツイッターだったら固定ツイートだけでなくbioにも、同人誌だったら奥付にそのリンクが張ってあればもっと楽に感想を送ることができるのにとも思う。

 どうでもいいが、私はピクシブのリンクをツイートしてもらうことがとっても嬉しい。もしかしたら、感想を貰うよりも嬉しいかもしれない。感想が欲しいと思っている作者は意外といろいろなところを見ている。もしも感想を送ることができないなら、ツイッターで作品をフォロワーに紹介するだけでも、作者の人に好きを伝えられるかもしれない。

 感想は貰えると嬉しい。創作をしている人はほとんどそうなのではないだろうか。
 感想が下手くそで苦手な私のような人でも、もっと気軽に感想を送れるような何かが広まればいいなと思う。

創作者に人格を求めないでほしい

 創作をする上で、人格は重要か?

 私は必要項目ではないと思っている。


 不思議と、素晴らしい作品を作り上げる人に関して、きっといい人なんだろうなとか、それこそ顔がいいんだろうなとか、と私は結構勝手に思うタイプで、そういうタイプであることを自覚している。
 それは漫画や小説の中に出てくる、類まれなる才能を持った主人公にクズみたいな人間はおらず大体が美男美女だからだ。ただ、それは物語の中だけにしか存在しないことも知っている。

 実際の現実世界で素晴らしい作品を作り出す人は、まったくもって正反対なのではないかと私は思う。
 素晴らしい作品の内容にもよるが、周りと画一した新たな世界を自分に与えてくれるような作品というのは、それだけで特異だ。今まで自分の常識で想像できなかったものを作り出した人を、自分に想像できるだろうか? 答えは否だと思っている。だから、そういう作品の作者が、自分では推し量れない領域にいる人であっても驚かない。

 それに、今までの文学史をみてみても、その歴史に名を刻む人たちの中でのクズの多さには目を見張る。
 文学史自体は得意ではないので高校授業で教えられた知識しか持ち合わせていないが、その中でも自殺未遂をしなければ文豪には慣れないのではないかというほど、当時の文豪は自殺未遂を重ねていた。あるいはそのまま、失敗なのか成功なのか自殺で命を落としている人も多い。
 そんな人が、普通の人間かと言われたらそんなことはないと思う。大げさな言い方をすれば人間ではないし、自分と次元が違うところにいるものだ。


 これから書くことはあくまで、二次創作界隈だからかもしれない。でも、読者が作者を捕まえて「この時こういう対応をしてくれなかった」といった話を聞くことがままある。
 それを聞くたびに思う。何を言っているんだろうと。

 私が同人作家に求めるのは、あくまで素晴らしい作品であって、それ以外には要らない。もちろん、イベントで好きな作品を買いに行ったらそこで嫌な思いをしたことはあった。でも、それは期待しすぎた自分が悪いのだと思うようにしてきた。

 もちろん、人格者であればそれはいい。作品は素晴らしい、なおかつ人もいい。そんな人は沢山いるだろう。でも、作品が素晴らしくても、人がダメ。そんな人も沢山いるはずなのに、そういう人に遭遇するたびに文句を言う人は何を求めているのだろうと思ってしまう。作品を好きになったはずなのに、作品を嫌いになる。その原因が作品そのものではなく、作者だなんて。

 素晴らしい作品と人格、そのどちらが欲しいかと言われたら素晴らしい作品だ。利己的だが、人格は腹の足しにもならないが、素晴らしい作品は妄想によって幸せになれる。

 もちろん、創作者同士で交流する場合には、相手にある程度の良識がないとフラストレーションが溜まるとは思う。萌え語りはしたい、でも、私は相手に人格を求める自分になりたくないがゆえに創作者と交流することをあえてやめている。
 言ってしまえば、創作者の人格は破綻していると私は思っている。

 こんなことを書いてしまっている時点で私も自分で人格に難があることは自覚している。そんな私は、二次創作といえども作品を作る側として今も供給し続けている。
 そして私の友人で創作活動をしている友人二名も、もれなく人格としてはどこか問題がある。しかも二人の作品には心動かされるし、実際にピクシブなどでの評価も高い。ただ、本当に、友人の私から見ても、人としては問題があるタイプだ。

 まさに類が友を呼んだということでこう言い切るのも問題があるが、しかしリアルで知り合った実例がこうなので私は素晴らしい創作をする人に人格を求めてはいけないと自戒にしている。

 読者として、作品以外のところも素晴らしくあれと思うのは、偶像崇拝などに近く、勝手な理想の押し付けは向こうからしてみたら迷惑以外の何物でもないと思う。そんなことを言われても人は人、また性格に難がある可能性が高い創作者に何を求めているのだろうか。

 こんな人だと思わなかった。そんなことを言うぐらいならば、最初から作者のことなんて知らなければいいじゃないか。作品と作者を切り離して考えればもっと楽に生きられるのに。それに何より、自分が好きな作品を「作者の人がダメ」という理由で貶められるのを見るのが辛くてこの記事を書いた。

 作品と作者は違う。どれだけ美少女を描けても、本人がブサイクなんて何の不思議もない。そう言えば理解をしてもらえるのだろうが、人格者であることは大前提になっていように感じ場面が多々ある。

 創作者に人格を求めないでほしい。
 もしも「この人が嫌い」と創作者に対して思ったら、一度創作者そのものからは離れたほうが、純粋に作品を楽しめるのではないだろうか。