青色オード・ミー

腐女子が学級会などに言及するブログです。

原作未履修の二次創作について

 ちょうどツイッターのトレンドに入っていた件のことから、「原作未履修の二次創作」ということについて少し思ったことを言いたいと思う。

 今回の某ジャンルのことだけではなく、全般の「原作未履修の二次創作」について話をしたいと思うので、アカウントを作成し当該ツイートをした方の意図と外れてしまうことはご容赦願いたい。


 まず、原作未履修における二次創作の問題点をまとめたい。

①「二次」創作であるため、原作を知らない状態で作るのはおかしい(孫引き、キャラブレ問題)

②「原作が好き」な人たちによる創作であり、原作に触れないのはおかしい

③原作未履修では原作(一次創作)に一切利益がでないため

 

 基本的に原作をなるべく全て見てから、二次創作を行うべきである、という認識は二次創作を行う者の間では共有されているべきだと思う。

 

①「二次」創作であるため、原作を知らない状態で作るのはおかしい

 「二次創作」という名前の通り、二次である以上、一次作品がなければ成り立たないものである。原作未履修ということは、二次創作あるいはそれに準じたもののみにしか触れておらず、そこからネタを引っ張ってくるということだ。

 それは、論文などで言えば「孫引き」で、何かを引用する参考にする際にはその一次資料に当たるという「常識」から外れているという問題がある。

 それに、孫引きが問題なのは一次資料に当たらないことによって、しっかりとした正しい情報が提供できないことにある。孫引きを行うと、一次資料の情報との「ズレ」ができてしまう可能性がある。二次創作においても同じことで、「原作ではそんなこと言ってないけどそんなこと言いそうだから」と広まっていたことが、あたかもそのキャラが原作でもそうであるかのように扱われるようになってしまう。

 もともとのキャラと「ズレ」てないうちは表面化しないが、「ズレ」たときには原作のキャラが好きな人にとっては地獄になる。「○○ちゃんはそんなこと言わない」ということを、知らない、知ろうとしない人たちによって作られた「○○ちゃん」の二次創作は、「原作に登場する○○ちゃん」の二次創作ではなく、二次創作のさらに派生の三次創作化してしまう。そして、創作する人、それを受け取る人が原作を知らないと、三次創作化してることに気が付かない。そんな、危険性がある。

 

②「原作が好き」な人たちによる創作であり、原作に触れないのはおかしい

 二次創作というのは「ある作品(原作)が好き」な人たちが集まって派生作品を作る、というものである。そのため、原点であるはずの「原作」に触れないのに原作を好きというのはそもそもおかしい。

 今回の場合は原作はゲームであり、ストーリーについては原作の内容を「見る」ことだけなら実況などでできる。ただ、それは他人がなぞったストーリーを見るだけに過ぎない。そうして他人の手を介している以上そこで見たものは、本などのレビューを読んだだけということと大して違いがない。

 その作品をを好きな人たちにとっては、原作を未履修のちゃんと知らない状態で「好きになった」と言うのはおかしいし、「愛が足りない」ように見えても仕方がない。

 

③原作未履修では原作(一次創作)に一切利益がでないため

 原作に触れていないということは、原作の「売り上げ」には一切貢献していないということだ。売り上げは原作の存続に直接関わってくる。なんだっていい、アニメなら視聴率でもレンタルの売り上げでも公式放送の再生数でもいい、できればお金が絡む形での「売り上げ」に貢献できるのが一番ではあるが、公式が出してるものの数字に貢献できればとりあえずはなんでもいい。もちろん、一番はゲーム、円盤、本を直接買うことだが。そうして公式が「人気コンテンツ」として稼げると思えばグッズがでて、アニメ化され、続編が出て…となる。

 でも二次創作だけ、では公式にお金どころか数字にも貢献しない。二次創作を見て、作って、だけでは公式はそのコンテンツの人気を計れないし、稼げると思えなければ続編は出ずにジャンルごと衰退する。

 そのときに悲しむのは、今まで原作を好きで、原作を買って貢献していた人たちだ。

 

 これらの前提の上で、あくまで二次創作は原作を履修してから行うべきである。

 ただ、私は「原作未履修では二次創作を行ってはいけない」とは短絡的に結論づけられないと思う。

 

 端的に言ってしまえば、場合によっては原作未履修でも二次創作を行ってもいい場合があると思う。

  大分語弊があるこの言葉の言い訳をさせてもらう。

 原作未履修、とはまずどこからのことを指すのかという問題がある。例えば、原作が漫画だったりゲームだったりする作品の「アニメのみ」を見た場合はどうなのか。原作が完結済みならば、アニメで原作の内容をすべて知ることもできるが、連載が続いていたり続編があったりする作品では「アニメのみ」では「原作を履修した」とは言い切れない。このような場合においても、「原作未履修」だと必ずしも非難されなければいけないのか。

 また、「アニメのみ」に限らず、そもそも原作の一部しか見ることができていない場合にはどうなるか。完全に続き物のゲームの中で1作品だけ、漫画だったら10巻までしか読んでいない、など、「一部分だけ」しかまだ見ていない場合には「原作を履修した」とは言い切れない。

 このような、「一部分だけしか見ていない」と「完全に原作を見ていない」が原作未履修かどうかという問題において今までにはしばしば混合されてきたように思う。

 この間、話題になった某ゲームでは、単純に、新作――シリーズ作品の中での「今作」を実際に自分でプレイしたことがない人たち、がやり玉に挙げられていた。それだけならば問題はない。今回の問題では単純に問題とされてきた人たちが今作をやればいいのだから。

 でも、これが派生して「全部原作を読んでないと/見てないと/プレイしてないと」といつの間にか「作品を楽しむハードル」が上がることがあるのではないかと思う。それは、正直私は歓迎しない。いままで10年以上続いたゲーム作品を1から最新のものまで一気に全部やるのは無理だし、100巻以上ある漫画はそう簡単に買い揃えられない。アニメだって円盤じゃなくてもレンタルするのでもなかなかお金はかかるし、まず何よりも時間がかかる。言い訳にしかすぎない、原作への愛があるならそれぐらいのことは頑張らなければいけないのかもしれない。でも、それをずっと求めることで、原作そのものへ愛を持つことが難しくなるのは良くないことだと思う。

 二次創作はあくまでも原作への愛があってするものだ。だからこそ、原作は履修するべきだ。人によってそれがどの程度までしなければならないことかは違う。少なくとも「履修しなければならない」のは正しいことだと思う。その原作が、コンテンツが今後も存続するためには、アクティブユーザーがいることを示さなくてはならないから。

 ただ、一部しか「まだ」履修することができていない人のことを否定することもできればしたくない。その人たちは、これからもっと履修して、もっと好きになってくれるかもしれないから。同志を増やすために、否定して欲しくない。

 「履修しなければならない」ことを前提として、できれば「まだ」履修することができていない人たちは開き直らずに謙虚にいて欲しい。誰しも、自分が大好きな作品のことを「ちゃんとは知らないけど大好きです!」なんて言っては欲しくない。ただ、わざわざ「これから頑張りますから見逃してください」とへりくだったり、好きという気持ちを押し殺して絵の1枚も描かないなんてことはしなくていいと思う。アニメの内容までしか知らないならアニメの内容まで、今まで履修した範囲のことを超えない形で二次創作するなら、わざわざ「ここまでしか読んでません」なんて宣言する必要もないと思う。何も問題はないと思う。今回の話の論点からは大分逸れてしまったが、「原作未履修」としていま話題になっている以上に、責められる側の範囲が拡大しなければいいな、とそれだけは思う。

 そうして、いまは「まだ」履修できていない人たちは、好きの気持ちを持ってこっそりと履修を進めていって欲しい。